調査研究

「 国家プロジェクト 」 としての日露戦争 水木 楊

財政、外交、軍事 ---- 国家戦略を総動員して国難を克服した大戦略家の真価
大小を問わず、組織が存亡の危機に瀕したとき、最も必要な存在とは何か。20世紀初頭、ロシアの脅威にさらされたわが国は、慎重に外交的手段を講じた上で、乾坤一擲の勝負に賭けた。率いたリーダーは臆病なほど慎重で冷徹な戦略家だった。

日露協商か日英同盟か
明治34年(1901)9月13日のことである。首相の桂太郎は三田の公邸に山縣有朋、伊藤博文、井上馨の元老3人を招き、宴を張った。外遊する伊藤を送別するためである。伊藤が外遊するのは、ロシアに赴き「日露協商」の瀬踏みを進めるためだった。伊藤は前首相であるだけではなく過去4度にわたり政権を担った経験を持つものの、外務大臣でも何でもない。しかし、この頃の元老は国家の重要な政策決定につねに関与しており、時には閣議にまで出席することもあった。特使と同様の権限を持って外交交渉をすることもしばしばあった。伊藤は宴半ばにして切り出した。「もし、ロシアが日露協商に応じたら、政府はどうするのか」ロシアと手を結ぶ「日露協商」と並行して政府は日英同盟の構想を立て、英国とも交渉を始めていた。国論は2つに分かれ、伊藤は日露協商派の巨頭だったのだ。同席の井上も伊藤に同調している。これに対して、山縣は日英同盟の推進派である。山縣の日英同盟論はいまに始まったことではない。その年の初め、山縣は4度目の政権の座についた伊藤に書をしたため、英独との同盟の必要を説いた。「清国(いまの中国)は乱れ、やがて列強が分割することになるだろう。日露は早晩衝突する。ロシアは絶えず南下を目指しており、それを阻止するには英独の力を借りなければならない」山縣はその前の年にも親近者に同じ内容の手紙を書いている。ロシアの真意について、伊藤と山縣との間には認識の差がある。満州(中国東北部)はロシアに譲り、その代わり朝鮮半島の経営は日本が当たるという構想を伊藤は持つ。いわゆる「満韓交換論」で、この線に沿ってロシアを説得できると踏んでいた。一方の山縣は、そんな甘いものではないと考える。ロシアは朝鮮半島の経営を日本に任せるなどという妥協をするはずがない。放っておけば朝鮮半島のみならず対馬にも手を伸ばしてくるおそれがある。それを食い止めようとするなら、ロシアとは戦争をせざるを得なくなるというのが山縣の認識だった。日清戦争後、いったん手にした遼東半島の利権をロシア、フランス、ドイツの三国による猛烈な干渉によって、日本は手放さざるを得なくなった。このとき山縣はロシアの野心を垣間見る思いがした。その後、対ロシア作戦を想定する元帥府を設置、大山巌、西郷従道とともに元帥に就任した。元帥の位置は、天皇を補佐する「軍事上ニ於イテ最高顧問」である。明治31年、二度目の政権についた山縣は増税を強引に進め、軍事力の増強に取り組む。同時にアメリカ人資本家が所有していた京仁鉄道(京城 仁川間)の敷設権を買収、鉄道の敷設について議会の同意を得た。そんなことをすると、ロシアを刺激する恐れがあると伊藤や井上は反対したが、山縣は対露戦に備え、兵站補給路を確保したかったのである。

「英国は日本との同盟を望んでいる」との確信
「ロシアが日露協商に応じてきたらどうするのか」との伊藤の問に、山縣が桂に代わって答えた。「日露協商を拒否するわけではないが、貴兄の独断は困る。ロシアとの話し合いは全て報告のうえ、本国の判断を仰いでほしい」当時、元老は単独で外交交渉をまとめるほどの力があったのだが、山縣は伊藤の独走に釘をさしたのだ。伊藤は憤然として言った。「好き好んで外遊するわけではない。細かい注文をつけるなら、外遊を中止してもいい」実は伊藤の外遊は山縣が強く勧めたものだったのだ。お前が行けというから重い腰を上げたのだ。それなのに自由に行動できぬ枠をはめるとは何事だというわけだ。桂が間に入った。「私は首相の器ではありませんが、全力を尽くして任に取り組んでおります。私のあずかり知らぬところで重大なことが決められるというのでは、任は務まりません」桂は山縣直系の軍人政治家である。第二次山縣内閣のとき桂を陸軍大臣に登用し、以来、「君は僕の受け前(後継者)だ」と言って育て上げてきた。桂だけではない。その内閣のうち児玉源太郎、寺内正毅、内海忠勝は長州出身。長州でなくとも、平田東助、曾禰荒助などは山縣の直系中の直系だった。山縣の息のかかっていない閣僚は海軍大臣の山本権兵衛くらいのものである(いずれも組閣当時)。伊藤系の人物は1人も加えられていなかった。桂内閣が発足したとき、世間は「小山縣内閣」と呼んだ。昭和57年、中曽根内閣が生まれたとき、陰で操る田中角栄を指して「田中曽根内閣」と呼んだようなものだ。桂内閣は元老の加わらない初めての内閣でもあり、3日も持たないという意味で「惟任(明智光秀のこと)内閣」とか、「緞帳(下級役者)内閣」、「小僧内閣」とか言われたほどである。当然のことながら、桂は日英同盟に賭けようとしている。政府に相談なく物事を決めるのだけは止めてくれという桂の哀訴に、伊藤は矛先をおさめ、ロシアに向けて出発した。伊藤は日英同盟に反対していたわけではない。若い頃、英国に留学したこともある伊藤は親英派である。だが、あの誇り高い大英帝国が東洋の小国日本となど対等の立場で同盟を結ぶはずがないと思い込んでいた。英国はそれまで「名誉ある孤立」を貫き、どこの国とも同盟を結ぶことがなかったからだ。しかし、山縣は日英同盟が夢物語ではないと確信していた。山縣ほど海外情報の入手に熱心だった元老はいない。つね日頃、「赤電報を読まない者は首相になれない」と言っていた。赤電報とは政府に入ってくる欧文電報のことである。伊藤とは異なり留学経験がないから、語学ができない。しかし、毎朝、新聞の外電面をくまなく読み、少しでもわからないことがあると、秘書官や副官に調べさせた。山縣に仕えると、海外駐在の3年分に相当すると言われたものだ。そうした情報ルートから、英国がいま望んでいるものは有事即応能力を持つ兵力であり、それは日本陸軍しかないと認識していた。日本陸軍は英国にとっての大きな価値があるということだ。明治32年(1899)、第二次山縣内閣当時、義和団事件が発生、このとき英国のソールスベリー首相の要請に応じて兵を出して鎮圧したことがある。その存在感を十分しめしてビクトリア女王から感謝の電報をもらったことを、山縣は忘れていなかった。山縣の構想からドイツは落ちた。同盟に乗り気ではないことが分かったからだ。しかし、英国の方は南下を目指すロシアを強く警戒している。アジアには英国の権益が広く根を張っている。英国はロシアをチェックする存在として日本に期待しているはずである。事実、駐英公使の林董は、同盟に関する英国の態度がきわめて真剣であると知らせてきていた。伊藤は勇んでモスクワに赴いたが、やがて彼を憤慨させる出来事が起きた。駐露公使館に入った話によると、日英交渉が急速に進展して、合意寸前だというではないか。慌てた伊藤は、「英国への最終回答はちょっと待て」と電報を打った。ところが、桂首相は12月初旬、在京の元老を葉山の別邸「長雲閣」に集め、条約案への署名を求めたのである。伊藤は完全に浮かされた。浮かしたのは山縣である。山縣は策謀家だった。林公使はロシアに急遽でかけ伊藤の説得に当たった。伊藤はこだわりのない性格である。最早抵抗しても仕方がないと悟ると、あっさりと同盟に賛成した。

国運を賭けた乾坤一擲の戦い
こうして日英同盟は成立、日露は衝突への運命を歩き始めた。もちろん、ロシアの出方次第では、日露戦争は回避できたかもしれない。しかし、ロシアの出方は居丈高だった。義和団事件に乗じて満州に出兵したロシアはその後、露清条約によって遼東半島から撤兵するはずだったのが一向にその様子を見せない。それどころか、北朝鮮にも手を伸ばし、明治36年、韓国政府と森林伐採契約を結んだ。そして、鴨緑江下流を占領し、軍事施設を建設したのである。その年の4月21日、山縣は首相の桂、伊藤、外務大臣の小村寿太郎を別邸の「無鄰庵」に招き、ロシアに対する交渉方針を決定した。もし、これに応じなければ、開戦止むなしという最終方針である。ロシアには朝鮮半島における日本の権益を認めさせる。その代わりに満州におけるロシアの鉄道経営については、ロシアの特殊権益を承認する---という内容である。だが、ロシアは返事を引き延ばした挙句、到底受け入れることのできない回答をよこした。その内容は①満州およびその沿岸はあらゆる面で日本の利益の範囲外とする。②朝鮮半島の北緯39度以北は中立地帯とする。---というものだ。②については、すでにロシアは軍事施設を作り軍を入れていたから、実質的には朝鮮半島の半分をよこせと言っているようなものだ。ことここにいたっては、開戦に踏み切るしかない。山縣は戦時体制の人事を決めた。秘蔵子である児玉源太郎を参謀次長に起用するよう、陸軍大臣の寺内正毅に要請したのである。参謀総長には元帥の大山巌に白羽の矢を立てた。大山は参謀総長に就任するのを躊躇した。なぜなら、官界の格としては内務大臣と台湾総督を兼務する児玉の方が上だったからだ。しかし、頭脳明晰、判断の速い児玉と茫洋として懐の深い大山とは、この上ない絶妙のコンビだった。開戦後しばらくして大山は満州軍総司令官として、また児玉は満州軍総参謀長として戦場で直接指揮を取ることになる。大山の後を継いで参謀総長兼兵站総監の地位に付いたのが御大の山縣自身だった。宣戦布告を決めた明治37年2月4日の御前会議に列席した山縣は、会議後、伊藤の手を固く握り、「この戦争に全力を捧げるつもりなのはもちろんだが、万一敗戦に到ったときは忍び難い困難が待っている。そのときは、われわれ軍人は生きてはいない。将来のことは貴下の力に待つしかない。そのときの貴下の苦しみを思うと、死に勝るものになるだろう」と悲壮な声で告げた。

「国家の大政策の確立」の意味するところは
明治37年(1904)2月、日本海軍は仁川港外にロシア艦船であるワリヤーク、コレーツを撃沈、日本政府は対露宣戦布告を出した。国運を賭けた、まさに乾坤一擲の戦いである。ロシアの兵力は歩兵を取ってみても1740大隊で総勢167万人。動員可能な能力は日本の5倍だった。世界の多くは日本の敗戦を予想した。明治天皇は精神的な重圧の余り、健康を害して床に臥したほどだ。満州の戦いは多大な犠牲を払いながら南山、遼陽、沙河、旅順と勝ち進み、最大のヤマ場である奉天会戦に突入した。この会戦の日数は24日間、参加した兵力は日本側が25万人、ロシア側が31万人。その時点では有史以来の未曾有の大会戦となった。会戦が終わり、日本側の失った兵力は約7万人、ロシア側は約9万人である。日露の損害はそれほど大差ないが、背後に控える兵力を考慮すると、日本のダメージの方が圧倒的に大きい。ほとんど敗戦に近い勝利である。惨勝というべきだろう。奉天会戦後の日本軍の兵力は歩兵678大隊、騎兵65中隊、砲1180門。一方のロシア側は満州に展開している兵力だけで678大隊、騎兵222中隊、砲2260門。しかも、日本側はこれだけの兵を集めるのに採用の際の体格基準を下げ、兵役年限を延長し、国内警備は手薄にするという状態だった。奉天会戦後、大山総司令官は山縣に打電した。「今後の戦略は政策と一致するを要す」政策とは政治の策のことである。つまり、暗に和平工作を求めたのだ。山縣はただちに「政戦略を一致させることはつねに注意をしている。政府は善謀熟慮好機会を捉えるべき」と返電した。それから児玉を東京に呼び寄せ実情を尋ねるとともに、自ら現地に赴いて視察した。そのうえで、桂に長文の書をしたためたのである。それは戦いを優勢に進めている国の参謀総長としては、重苦しいトーンに満ちた、不思議な手紙だった。主旨は以下の通りだ。「これまでの戦いは想像以上の勝利を収めた。奉天会戦も幸運に恵まれた。しかし、敵は戦う意思を一向に改めようとはしない。それどころか、さらに数十万人を増員しようとしている。ロシアは欧州にあって強国とされた国である。自尊心もあるだろうし、本国には十分な兵力を持っている。それに対して、こちらは物資が足りない。人員の補給も容易ではない。こうしたことを覚悟に入れて、第三期の作戦に入らなければならない。場合によってはモスクワまで攻めなければ、相手は屈しはしないだろう。勢い戦いは長期化する。ここでは国家の大政策を確立する必要がある」戦いを指揮する参謀総長としては、表立って和平を求めるわけにはいかない。少なくとも戦いは勝っているのだから、白旗を掲げるわけにはいかない。だから、「国家の大政策の確立」と表現したのだ。それが講和を意味していることは明らかだった。このあと、日本海軍はロシア艦隊に対して華々しい勝利を挙げるが、日本の台所の苦しさに変わりはなかった。山縣の書を受けて桂は和平工作に力を入れた。米国に仲介の労を取ってもらうべく外交工作を活発化させた。米国には和平の仲介をする理由があった。アジア太平洋地域でロシアが勢力を野放図に伸ばすのは好ましいことではなかったが、さりとて日本が決定的な勝利を収めることによって、その権益が必要以上に拡大するのも歓迎できなかった。かくて米ルーズベルト大統領は仲介の労を取り、米国の軍港ポーツマスで講和が成立した。歴史にIF(イフ)は許されないが、もし、この戦いで日本が負けていたら何が起きたか。それは帝政ロシアに圧迫されたフィンランド、ポーランド、中央アジア各国などの辛酸を見れば分かることだ。朝鮮半島を支配されるだけではなく、対馬は取られ、長崎か博多湾は租借地にされていたかもしれない。北海道ですら確保が難しかったかもしれない。戦争は悲惨な犠牲を生みはしたが、負けたら、もっと悲惨な目にあっていたことだろう。日露戦争は国民が勝利という一点に全エネルギーを集中させて頑張った巨大プロジェクトだった。この勝利のお陰で、日本は欧米列強に仲間入りを果たし、「先進国に追いつけ、追い越せ」の道を一直線に走り出した。

「国家的プロジェクト」の真のリーダーは誰か
日露戦争には数々のヒーローたちが登場する。兵力の不足を作戦の妙で補い勝ち抜いていった現地軍総司令官・大山巌や同総参謀長の児玉源太郎、戦費調達のため欧米金融市場を駆け回って外債の発行を成功させた日銀副総裁・高橋是清、欧州にあって帝政ロシアを打倒すべく不満分子を煽って謀略工作を展開した明石元二郎大佐、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破った連合艦隊司令官・東郷平八郎、米国大統領のルーズベルトに接触して和平の仲介役を頼み込んだ金子堅太郎、ポーツマスで海千山千のロシア講和全権ウイッテと渡り合い困難な講和条約をまとめ上げた外相・小村寿太郎.....。しかし、日露戦争の勝利を導いた最大のヒーローは誰かと問われるなら、それは山縣有朋を置いてないと言わざるをえない。山縣こそが、この巨大プロジェクトのリーダーだったのだ。山縣は第二次内閣でロシアを仮想敵国として軍事力を増強し、その財源の確保のために乾いた雑巾を絞るような増税に取り組んだ。桂内閣は「小山縣内閣」とか「緞帳内閣」とか揶揄されたが、伊藤色を払拭したことから、閣内の統一を守り、一丸となって日露戦争を戦うことができた。臨戦態勢としてはこれ以上の人事はない大山-児玉のコンビを起用したのも山縣である。そして、最後に軍の最高司令官でありながら、戦いの限界を冷静に認識して和平の必要を桂に示唆したのも山縣だった。にもかかわらず、山縣の評判は悪い。あるいは、日露戦争における山縣の役割を必要以上に低く位置づけようとする傾向がある。山縣の評判の悪さには十分な理由がある。まず、山縣は明治維新でさしたる役割を果たさなかった小物である。天保9年(1838)6月、長州萩城下の川島庄に生まれた。幼名は辰之助。蔵元附仲間組という下級武士の家だ。これではうだつが上がらぬと考え、槍術で身を立てるべく精進、19歳のときに自得した。要するに、槍の使い手であるという以外、これといった特徴のない陰気な顔をした若者だったが、安政5年(1858)、長州藩が京都へ天下の形勢を視察させるため派遣した6名に加えられたのが幸いした。この6名に伊藤も名を連ねている。木戸孝允の知遇を得た山縣はとんとん拍子で出世して高杉晋作が創設した平民兵による奇兵隊の軍監を務めることになる。とはいえ、奇兵隊軍監として目だった活躍をしたわけではない。むしろ西南戦争では薩軍に手こずり、苦戦を強いられたいきさつもあった。明治維新のドラマではさしたる活躍をしたわけではなかったわりには、偉くなった。明治31年(1898)には初の元帥、34年には侯爵の爵位を授けられ、翌35年には大勲位を受ける。政権に二度にわたってつき、元老の中では伊藤と並んで最右翼に位置する。なぜ、それほどまでに偉くなったかといえば、戦場ではなく軍政家としてぬきんでた手腕を発揮したからである。徴兵制度を実施したのも、参謀本部を設置したのも山縣である。総理大臣としては今日の府県制、郡制、市制、町村制などの地方制度を発足させたのも彼だった。さらに、彼には権力に対する人並みはずれた執着心があった。一つ一つ石を積み上げるように味方を増やし、閥を広げ、敵を排除して、強固な権力の城を構築していった。『山縣有朋』(岩波新書)の著者である岡義武氏は、山縣について「内閣製造者であり破壊者。閏閥・官僚の総本山、軍国主義の権化、侵略主義の張本人....世上から非難され、憎まれながらも、痩躯鶴のようなこの老人の巨大な影は、その死にいたるまで明治・大正の政界の上に掩いかぶさっていた」と書いている。
妥当な戦略は、決して蛮勇からは生まれない

山縣は、書く者、読む者にとって、感情移入のすこぶる難しい人物である。長身で痩せていて出っ歯。風貌は暗い。生活は規則正しく、毎朝午前六時に起床。タオルで全身を拭き、朝食は牛乳に麺に決まっている。食後、トイレで便の消化具合を注意深く点検。そのあと、庭で槍を揮う。倹約家で、伊藤のような豪放磊落さが感じられない。人気の湧きようのない男で、政府は彼の死は国葬をもって遇したが、日比谷公園で催された葬儀への参列者は少なく、1ヶ月前に同じ日比谷公園で催された大隈重信の国民葬の雑踏振りに比べると、淋しい限りだったという。山縣の評判の悪さは枚挙にいとまはないが、そのほとんどは彼の有した圧倒的な権力の大きさに起因している。つまり好嫌の感情は別として、みなが山縣の巨大さを認めているのである。にもかかわらず、日露戦争という壮大なドラマの進行過程に限って、山縣がろくな役割も果たさなかったかのように断ずるのは論理的に矛盾する。というよりも、歴史を公平に、かつ客観的に振り返ることにならないだろう。山縣はまぎれもなく日露戦争の主役だったのだ。日英同盟を導き、奉天会戦後に和平をもたらすべく動いた戦略家・山縣の本質は、用心深さにあった。元治元年(1864)夏、馬関戦争当時、山縣は奇兵隊の軍監として参戦した。志士たちが河豚を賞味していたとき、山縣は一人離れ鯛を鍋にして食べていた。当たるのが怖かったのである。それを見て志士たちは「臆病なやつよ」と笑った。しかし、山縣は平然として鯛を続けた。このときの戦争で、長州は列強の連合艦隊にこっぴどくやられた。腹と腕に傷を負った山縣が学んだことは、戦いは戦略の巧拙や戦闘精神の有無もさることながら、武器の性能が大きく物を言うということだ。列強の強さに、若い山縣は怖気をふるった。彼らと伍すには、近代的な軍事力を整えるしかないと肝に銘じたのである。山縣の対外政策は慎重であり、ときに防衛的ですらある。日清戦争のときは戦いを極力回避すべきという立場を取ったし、日露戦争の和平交渉ではロシアに樺太を割譲させることにも消極的だった。対支二十一箇条を突きつけた大隈重信内閣の外交政策には批判的で、むしろ袁世凱の政府と提携して利益線(満州方面)に専念すべきと主張した。山縣の用心深さ、臆病さ、疑い深さこそが日露戦争の大戦略を固め、勝利を導いた。というよりも、戦略とはそもそも用心深さから構築されるべきものである。戦略は大向こう受けする蛮勇から生まれはしない。憂慮すべき、あらゆる事態を想定し、ときに隠忍自重して力を蓄え、必要とあれば提携もし、ひとたび戦えばつねに引き時を考える。そうした戦略家がいれば、日本は第二次世界大戦突入の愚を犯すことはなかっただろう。山縣は往々にして第二次世界大戦の遠因を作った元凶にされることが多い。そのひとつは暴走した陸軍の創設者であり、もうひとつは内閣を超越するかのように乱用された参謀本部の統帥権の確立に原因がある。天皇の神格化も山縣の罪とされている。山縣の造った制度や機関が暴走して日本を振り回したことは事実だが、それはあたかも御者を失った馬が暴れまわるようなもので、問題の本質は馬を制御することのできる力のある御者が不在だったことにある。平民首相として評判の高い原敬は、山縣としばしば対立した。その原敬が組閣の前年、新聞や若手軍人の間に日米戦争論が高まっているのを憂慮して、親しい者に次のように語ったことがある。「日米戦争は山縣公さえ生きて居れば、起こらないよ。山縣公は外国に対して腰の弱い人である。外国に対しては非常に懸念深い人である。この点は見ようによっては、公の長所ともいわれれば、また短所とも言える。いくら陸軍の若手が騒いでも山縣公の存命中は大丈夫だよ。」山縣の本質が用心深さ、臆病さにあることを見抜いた言葉だった。山縣の没後、言論人の徳富蘇峰は「穏健なる帝国主義者」と評した。この時代、帝国主義は悪口ではない。徳富蘇峰は続けて、「彼を称して武力侵略の頭目を為すがごときは、誤解も亦甚だし。彼は寧ろ余りにも外国を買い被って居た。彼と雖も全く怖外病より蝉脱する能はなかった」と書いている。また、山縣は熱心な天皇制護持者だったが、生身の天皇を神格化したわけではない。明治天皇が、枢密院の会議に出席したときのことだ。天皇は平素と様子が異なり、議事の途中で仮睡した。そのとき、議長の席にあった山縣は軍刀の先で床を叩き、その音で天皇ははっとして目を覚まし居ずまいを正したという。山縣が天皇を中心とする国家の統治機構の強化に熱心に取り組んだのは、そうしなければ国家の統一を保つことができないと認識していたからだった。国内の不満分子の動向にはそれほど神経を尖らせていたということだ。ここにも山縣の用心深さが現れている。第二次世界大戦の悲劇は山縣にその責任の一端があるというよりは、むしろ山縣のような重い存在に欠けたからこそ起きたと言うべきだろう。国家を問わず、あらゆる組織にとって必要なのは、ときには嫌われることも辞さぬ、孤独で冷徹な戦略家であることを、日露戦争時の山縣は教えてくれている。

プレジデントプラス 「 日本を創った挑戦者たち 」より 2003/6/2