調査研究

山縣有朋像見直しの動き

明治の元老・山縣有朋(やまがた・ありとも)は陸軍創設に関わったことで、戦後、軍国主義の象徴として批判されてきた。だが近年、外交・安全保障の観点から、冒険主義を避けた現実主義者の面に光を当て、山県像を見直す著作が相次いでいる。

昨年末刊行の『山縣有朋と明治国家』(NHK出版)で、井上寿一学習院大教授は、富国より強兵を指導する役割を担った「近代日本の必要悪」としての山縣像を分析の柱の一つに据えた。長州藩奇兵隊時代の1864年、四国連合艦隊による下関砲撃を体験して以来、欧米列強を畏怖(いふ)した山縣は、統帥権独立など陸軍の制度設計に関わり、軍拡を主張したものの、日清・日露両戦争回避を模索したという。

山縣は1922年死去。9年後の31年、陸軍は満州事変を起こし、中国を侵略した。さらに太平洋戦争へ突き進む。戦後、山縣は戦争の原因を作った張本人として批判された。代表的な評伝の一つ、藤村道生著『山縣有朋』(61年、吉川弘文館)は「日本人民は山縣のつくりだした官僚・軍部によって太平洋戦争に引きずり込まれた」とした。 だが、井上教授は、陸軍の暴走について、「政党内閣が明治憲法を運用できず、軍部が統帥権を盾に暴走した。山縣とは関係ない」とする。 『山縣有朋と近代日本』(08年、吉川弘文館)編者の伊藤隆東京大名誉教授は、巻頭論文「近代日本における山縣有朋の位置付け」で、外交・安全保障で慎重姿勢を貫く山縣の言説を紹介。伊藤之雄京都大教授も、評伝『山縣有朋』(09年、文春新書)で、軍拡は求めたが、大陸政策は消極的で謀略も嫌った姿を描いた。 こうした、現実主義者としての山縣論が出てきた背景について、一坂太郎・萩博物館特別学芸員は「研究者の世代交代が進み、戦後のイデオロギーに左右されず、冷静に歴史を見られる世代が出てきたからではないか」とみる。 山縣は、国際的な環境や国力という現実を重視した。日本の外交に厳しい視線が寄せられるいま、明治の政治家の外交・安全保障観を、冷静に検証し直す意義はある。(朝日新聞 大室一也)