有朋と庭園

山縣有朋は築庭造園に高い見識と手腕をもち築庭構想の巧みな名手と評価され、彼の残した「椿山荘」「無鄰菴」「古稀庵」の3つの庭園は近代日本庭園の傑作といわれています。

■ 東京目白台「椿山荘」
明治11年、東京の本邸として有朋が、つばきやまと呼ばれていたこの地を購入し、その名にちなんで「椿山荘」と名付けました。南には牛込を越して宮城の森が見え、西に富士、北には筑波、東に房総の山々が見える絶好の丘に、自ら指揮して築庭し、約2万坪(東京ドームの約1.5倍)の起伏豊かな地形を巧みに生かし、林泉回遊式庭園を造り上げました。椿山荘は単なる築庭師では考え及ばない眺望雄大な名園として、いまも定評があります。当時、明治天皇をはじめ政財官界の第一人者がしばしば椿山荘を訪れ、重要会議を開いたと伝えられています。現在は、結婚式場「椿山荘」としてよく知られています。



■ 京都南禅寺畔「無鄰菴」
明治24年に有朋が小川治兵衛に指示して築いた、京都市街を西に望む庭園です。東山を借景とし、疏水の水をとり入れ東から数条に分かれながら西に流れる小瀑布、樹木、石橋を配置し、自然の流れを作った名園です。豊臣秀吉でさえ、あまりに大きく重いので運ぶのをやめたという庭石を、醐醍の山中から24頭の牛で無鄰菴に運んだと言われています。この有朋の京都別荘である無鄰菴は、1903年(明治36年)4月に元老山縣有朋と伊藤博文、桂太郎首相と小村寿太郎外相の4人が日露戦争を決断した、いわゆる無鄰菴会議の場所としても有名です。現在は京都市の指定管理者制度で植彌加藤造園株式会社が管理運営し一般公開しています。 無鄰菴ホームページ



■小田原板橋「古稀庵」
明治40年、70歳(古稀)を迎えた有朋が、小田原の板橋に別邸を建て「古稀庵」と名付け、晩年を過ごしました。東京の庭園師 岩本勝五郎に指示して築いた庭園は、相模湾と箱根山を借景とし、箱根からの自然水を取り入れ、風祭に水源池を設けてそこから引いた水で滝を作るなどの工夫を凝らしており、有朋の庭園観を生かした名園と称されています。この古稀庵は現在、あいおいニッセイ同和損害保険株式会社の小田原研修所となっており、毎週日曜日に一般公開されています。当館の「明治の洋館」(文化財)はこの古稀庵内に建てられたものを大正12年に移築したものです。